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マーケットガーデン作戦 作戦1日目
1944年9月17日 [日]

Operation Market Garden

計画と準備からの続き

【英陸軍第XXX軍団戦区】
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1944年9月17日の1435に、地上軍である第XXX軍団がこの「ジョーの橋」から進撃を開始した。
51 14 22 N 5 22 43 E
当時の橋は現在の橋の西隣(写真の橋の向かって左隣)にかかっていた。
進撃の前方には、味方による砲撃の弾幕が張られ、前進に合わせて幅1kmの砲撃も先に進む。
これが奥行9kmにわたって続けられ、潜んでいると思われる敵を撃破しながら前進した。
軍団指令のホロックス中将は橋の近くにある工場の屋根(写真では橋の向かって右、木の影に隠れてチラ見えしているいる建物か?)から部隊の進撃を見守ったという。

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1500に隊列の先頭を行くアイルランド近衛連隊の戦車が国境を通過してオランダに入った。
写真は国境で奥がオランダ。
51 16 01 N 5 23 47 E
現在はEU&ユーロ統一されており交通ルールの微妙な違いを説明する看板があるだけで、出入国手続きも税関検査も両替も必要無いのは至極便利。
この地点までは9月10日以降英軍が進出しており、先に述べた準備砲撃はこの先150m程の地点から始まった。

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オランダに入ってすぐに、1500頃、先頭を進撃していたアイルランド近衛連隊の戦車の隊列は、森に隠れていたドイツ軍の88mm砲の攻撃を受けて、たちまち9輌が頓挫炎上した。
街道はパニックとなり、後続の戦車、装甲車、トラックなどが停滞し渋滞した。
結局英空軍のタイフーン地上攻撃機の応援を要請して対処し、進撃を再開できたのは1815だった。

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やがて部隊はドメル川を渡った。
51 20 20 N 5 26 37 E
この少し手前までは1週間前に偵察に来ている。
マーケットガーデンでは大きな橋の確保が注目されるが、それ以外にもこの様な小規模の河川を何度も超える必要があった。
幸いここはドイツ軍が爆破せず難なく渡れた。
この後、ナイメーヘン市内で同じドメル川をもう一度渡るが、前述の通りそれは第101空挺師団が確保することになっていた。

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結局、17日の終わりに第XXX軍はファルケンスワールトまでしか進撃できなかった。
51 21 04 N 5 27 33 E

左の黄色い建物は中華&和食店で、日本の旗(何故か大阪と書いてある)と中国の旗がなびく。
グローバルに見て当事者以外日本と中国と韓国あたりの違いを判っている人は少なく、これらの国の料理はしょっちゅうごちゃ混ぜにされる。

ファルケンスワールトはマーケットガーデン作戦により最初に解放された、まとまった大きさの町となった。
(最初のオランダの町という意味では、南部のマーストリヒトが米陸軍第30師団により9月14日に開放されている)
しかしここはスタート地点である「ジョーの橋」から10kmしか進んでいない。
アーネムまでの全工程は約100km。1日目が終わろうとしている今、1割しか進めていない。
果たして間に合うのか?大丈夫なのか?この先、敵は本当に老人と少年しかいないのか?

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マーケットガーデン作戦初日に戦死した近衛師団アイルランド近衛連隊に所属していた身元不明の兵の墓。
ファルケンスワールトの英連邦軍の墓地にて。
51 18 44 N 5 25 32 E


空挺師団出撃】

1944年9月17日(日曜日)、この日は晴れだった。
夜明け前に連合軍爆撃機がマーケットガーデン作戦予定戦区にある対空砲陣地や飛行場、鉄道、判明している兵の集結地周辺に爆撃を行った。
0945に、英国南東部にある24箇所の航空基地(下表参照)から、輸送機及び曳航機に引かれた輸送グライダーが離陸し、降下予定地区に向かった。

飛行場名
使用者
輸送される空挺師団
飛行場座標
現状
米101
米82
英1
Tarrant Rushton
RAF
50 51 00 N 02 04 30 W
農地
Chilbolton
USAAF
51 08 36 N 01 26 23 W
農地
Keevil
RAF
51 18 46 N 02 06 47 W
英空軍飛行場(駐留部隊無)
Manston
RAF
51 20 52 N 01 21 01 E
陸軍基地
Aldermaston
USAAF
51 22 12 N 01 08 38 W
核兵器研究所
Greenham Common USAAF
51 22 44 N 01 16 43 W 民間の土地
Ramsbury
USAAF
51 25 49 N 01 37 11 W
農地
Welford
USAAF
51 28 06 N 01 24 13 W
軍需品倉庫
Membury
USAAF
51 28 41 N 01 33 18 W
民間グライダー飛行場
Harwell
RAF
51 34 30 N 01 18 43 W
原子力研究所
Blakehill Farm
RAF
51 37 19 N 01 53 17 W
自然保護区
Down Ampney
RAF
51 40 01 N 01 50 22 W
農地
Chalgrove
USAAF
51 40 28 N 01 05 07 W
民間飛行場
Fairford
RAF
51 40 56 N 01 47 24 W
英空軍基地(爆撃機)
Brize Norton
RAF
51 45 00 N 01 35 01 W
英空軍基地(輸送機)
Broadwell
RAF
51 45 27 N 01 38 22 W
農地
Spanhoe
USAAF
52 33 46 N 00 37 20 W
農地
Cottesmore
USAAF
52 43 46 N 00 39 05 W
陸軍基地
Saltby
USAAF
52 49 45 N 00 42 37 W
民間グライダー飛行場
Folkingham
USAAF
52 51 29 N 00 26 34 W
農地
Langer
USAAF
52 53 30 N 00 54 07 W
民間飛行場
Barkston Heath
USAAF
52 57 44 N 00 33 42 W
英空軍訓練基地
Balderton
USAAF
53 02 11 N 00 47 09 W
農地、露天掘
Fulbeck
USAAF
53 02 57 N 00 39 32 W
農地

英空軍の空挺部隊輸送は全てグライダーを曳航するものである。
英陸軍の第一空挺師団の一部(パラシュート降下する者)は米陸軍航空隊によって運ばれた。
英空軍(RAF)はダコタ、スターリング、アルバマール、ハリファックスを曳航に使い、グライダーはホルサとハミルカー。
米陸軍航空隊(USAAF)は動力機にC-47(C-53含む)のみを使用。グライダーはワコで、一部ホルサ。
空挺軍団司令部はHarwell飛行場からスターリング+ホルサの組み合わせて飛び立った。
上記飛行場は戦時体制で設置されたものが多く、現在は多くが軍用飛行場以外の用途に使われている。

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空挺部隊の輸送、グライダーの曳航及び補給物資投下の主力となったダグラス C-47 スカイトレイン輸送機。
米、英双方で使用されたが、米陸軍航空隊ではC-47 スカイトレインと呼ばれ、英空軍ではダコタと呼ばれた。
このC-47Bは元々米陸軍航空隊向け44-76787で、1944年フランス空軍にレンドリース、更に民間籍となりエールフランスがF-BAIFとして運用。
ベルギーのアルデンヌ地方アルロンの博物館でポール上に屋外展示の後、2002年以降オランダのWings of Liberation博物館にて展示。写真はこの時のもの。
塗装はオリジナルと関係なく、ノルマンディー上陸作戦に伴う空挺作戦で米陸軍第101空挺師団の隊員を輸送した時の第439TCG(兵員輸送飛行群)第91飛行中隊の塗装となっている。レジはフィクション。
その後2010年にミュージカル上演の大道具として使うために近距離を陸送中、陸橋にぶつかり大破し、コックピット周り以外はスクラップにされてしまったという。

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C-47系は英軍向けダコタ、民間型DC-3、海軍向けR4D、ソ連製Li-2、日本製零式輸送機などを合わせると1936年〜1950年の間に16000機以上が製造された。
ちょっと異端児なのがこのダグラス C-53C スカイトゥルーパーで、兵員輸送に特化し乗降ドアが小さく、床が補強されていない。潰しが効かないので少数の生産に留まった。

ちなみにABBAの「スーパートゥルーパー」を「超絶騎兵隊員」だと思っていたオバカは私です。
歌手の彼氏が騎兵隊員で、観衆に紛れてるけどライブに来てくれて嬉しいな、と。
マンマミーアの映画を英語字幕で見ていてやっと間違いに気付きました。

同じくオランダのWings of Liberation博物館の展示機。
元々はDC-3を徴用した米陸軍航空隊の43-2022で、戦後DC-3に戻され、民間航空会社を渡り歩いた。最後に米国で飛んでいたときの民間レジはN32MS。
その後Wings of Liberation博物館にて展示。

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アメリカ・テキサスで開催されたConfederate Air Force (その後Commemorative Air Forceに改名)の航空ショーにて。
441TCG(兵員輸送飛行群)第302飛行中隊の塗装で、同隊はマーケットガーデンで第82空挺師団を運んでいる。
気体は民間レジN227GB。GBは恐らく欧州戦線でC-47系を米兵がグーニーバード(アホウドリ:アルバトスと同じ)と呼んだことにちなむ。
TC-47B-35-DKとして建造され、米陸軍航空隊レジ44-77013が与えられたが海軍籍R4D-7として配属され、Bu.No.は99854。その後海軍省、FAA、農務省などを渡り歩いた。

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英空軍のダグラス ダコタ輸送機。バトルオブブリテンメモリアルフライトの所属。ドイツ・ベルリンのILA航空ショーで撮影。

英空軍ではダコタの他に、ショート スターリングおよびハンドレーページ ハリファックスの4発機を兵員輸送やグライダー曳航、補給物資投下に、また、アームストロングホイットワース アルベマール及びアームストロングホイットワース ホイットレイの双発機をグライダー曳航に使った。

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3600機以上が作られた英国のグライダー、エアスピード ホルサの残骸から構成した胴体断面の展示。。
ホルサは米軍のワコ CG-4Aよりも大型で約2倍のペイロードがあり、兵員25名まで運ぶことができた。
この為米軍でも採用している。
アーネムの空挺博物館にて。

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より大きな車両も運べる大型のグライダー、ジェネラル エアクラフト ハミルカーの風防。
344機生産。
M22軽戦車も運べる様作られたが、マーケットガーデン作戦時には英軍の対戦車砲や車両の運搬に留まった。
貨物積載量7トンは実用化されたグライダーの中ではメッサーシュミット Me321の20トンに次いで大きい。
アーネムの空挺博物館にて。

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米軍のグライダーパイロット。
空挺師団ではなく米陸軍航空隊の第9空軍所属になっている。
米軍の場合、グライダーパイロットは戦地にグライダーを着陸させるまでが仕事で、それ以降は必要に応じて着陸地点を警備する程度で基本的にヒマになる。
(英軍の場合はグライダーのパイロットは空挺軍直属のグライダーパイロット連隊の所属で、着陸後は地上戦で戦う)
後ろは物資のパラシュート投下に使うA-5パラパックコンテナで、パラシュートの色を青:糧食、緑:燃料、赤&黄:弾薬、白:医薬品等と識別した。
アーネムの空挺博物館にて。

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米軍のグライダー、ワコ CG-4A のレプリカ。オランダのWings of Liberation博物館にて。
ホルサよりも小型で狭い場所にも着陸できた。
兵員輸送の場合13名。ジープ+4名の輸送も可能。
約14,000機が製造された。さすがアメリカ。
この内、イギリス軍に750機が提供された。
曳航母機であるC-47よりも生産数が多いが、これはグライダーが基本的に使い捨ての扱いの為。

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アメリカ空軍博物館にて、C-47輸送機とワコグライダーの展示。

【米陸軍第101空挺師団戦区】
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パラシュート降下は大きな混乱なく行われた。
第101空挺師団の内、第502及び506パラシュート歩兵連隊が降り立った場所(パラシュート降下場A、B及びグライダー着陸場W)
51 31 33 N 5 27 33 E

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空抵降下の記念碑。この場所は厳密には降下場を外れている。
51 30 49 N 5 29 22 E

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後ろから見るとかなりお間抜け....

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第506パラシュート歩兵連隊はソンにあるウィルヘルミナ運河にかかる橋の確保であった。
降下後速やかに集合して橋に向かったが、途中ドイツ軍の88mm砲に阻まれ進撃できなくなってしまった。
同連隊の第1大隊は本隊と別れ別ルートで橋に向かったが、橋の近くの運河沿いに配置された別の88mm砲2門により進めなかった。
写真は88mm砲で本来高射砲だが榴弾砲や徹甲弾を用いて地上軍の制圧も出来た。
マーケットガーデン作戦では、ソンの橋以外でも米英軍の進撃を随所で妨害し大活躍している。
フランスの博物館 Musee Guerre et Paix en Ardennesの展示。

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ソンにあるヴィルヘルミナ運河にかかる現在の橋。
51 30 19 N 5 29 32 E
運河を航行する船が通れる様可動式になっている。
1600にドイツ軍が爆破し、橋の北西方向(画面奥の対岸側)から橋の約50m手前までに迫った米兵に破片が降り注いだという。
また、第506パラシュート歩兵連隊はソンの南にある、アイントホーフェンの町も制圧し、ドンメル川にかかる市内4箇所の橋も制圧することになっていたが、ソンの橋が爆破された為進めなくなってしまった。
結局第506パラシュート歩兵連隊の目標は何も達成できていない。坊主だ!
取りあえず工兵がウィルヘルミナ運河にロープと木材を使って橋をかけ、2個大隊が橋の南側に渡った。
しょうがない、英軍が来たら架橋を頼もう....

ソンの橋の西5kmにあるベストの橋 51 30 02 N 5 24 58 Eは、バックアップとして初日に確保すべく第502パラシュート歩兵連隊のH中隊が向かったが、ドイツ軍第15軍の一部に阻まれ泥沼の激戦となった。
翌日連隊からの増援があったものの、橋は18日の1100にドイツ軍が爆破した。
この時点でヴィルヘルミナ運河を地上軍が渡れる橋が無くなってしまった。
すなわち、ソンとベストの道路橋は爆破されてしまい、鉄道橋は確保出来てソンにも木とロープで出来た仮設の橋をかけたが、これらは機甲部隊が渡れる代物ではない。

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第502パラシュート歩兵連隊のもう一つの目標であったシント ウーデローデの橋は無事に確保できた。
51 33 51 N 5 27 56 E
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第501パラシュート歩兵連隊の任務はウェフヘルの町の確保と、町の南西を流れる南ウィレムスヴァールト運河に架かる橋の確保だった。
第2、第3大隊は予定通りのパラシュート降下地点Aに着陸した。
かつての降下地点は、現在工業団地になっている。
51 36 53 N 5 31 07 E

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第501パラシュート歩兵連隊の第1大隊については本来のパラシュート降下地点Aではなく、間違えて北西に5km程離れた場所に降りてしまった。
一帯は降下に適した場所ではなく、着地に失敗して負傷者が続出した。
大隊長は間違いにすぐに気付き、集合できた兵に、橋に向かって全力で向かう様命じた。
従軍牧師のサンプソン中佐は降下途中、未だ空中にいる別の兵のパラシュートの上に降りてしまい、このヘースヴェイク城の堀に墜落した。
51 39 21 N 5 26 29 E
2人とも無事に岸に上がったが、堀に落ちた礼拝セットを潜って探さなければならなかった(史上最大の作戦にも同じエピソードがあった様な...)。

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何はともあれ南ウィレムスヴァールト運河に架かる橋はウェヘルの町共々無事に確保できて一安心。
51 36 29 N 5 31 57 E

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もう一つの目標である、ウェヘルの町の東を流れるアー川にかかる橋も無事に確保できた。
51 36 47 N 5 32 40 E
降下地点と攻略目標が近ければ空挺作戦の急襲効果が最大限に発揮できるということだろう。


【米陸軍第82空挺師団戦区】
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アメリカ陸軍第82空挺師団の、タッカー大佐が指揮する第504パラシュート歩兵連隊の主力は、パラシュート降下兼グライダー着陸場Oに降り立った。
51 46 07 N 5 46 13 E

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一方、第504パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊の内、16名(中隊長トンプソン中尉)は、マース川にかかる、グラーヴェの橋の南西側に設定したパラシュート降下場Eに着地した。
中隊の残りは手前で降下してしまった。
写真は降下を記念するオブジェ
51 46 05 N 5 43 54 E
だが実際に降りたのはここの500m程西。

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グラーヴェの橋の南西側にはトーチカがあった。
51 46 09 N 5 43 52 E
これは1936年にオランダが主要な渡河地点の防衛のため、1936年に建設したもの。
ドイツ軍はこの上に20mm対空砲を設置していたが、着地した空挺隊員を撃退するには射角が合わず、トンプソン中尉の中隊はバズーカ砲により簡単に制圧した。
トーチカには多数の弾痕が見られるが、この時の戦闘のものか。

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橋の南からののアプローチを守る、同じく1936年にオランダが設置したトーチカ。
こちらも着弾の跡がある。
51 46 02 N 5 43 51 E

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間もなく橋の北東側(写真左奥方向)にも第504パラシュート連隊の本隊が到着し、グラーヴェの橋は米軍による占拠確保が完了した。
51 46 09 N 5 44 09 E
橋の両側、しかも至近距離に降下すれば簡単に押さえられるという手本だ。

1940年5月にドイツ軍がオランダに攻め込んだ時にはこの橋が部分的に破壊さたが、元通りに修復されていた。
ワール川を渡るグラーヴェの橋は長大で、万一これが押さえられないと浮き橋をかけるなど大掛かりな対処が必要だっただけに、この橋の確保は朗報だった。

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第504パラシュート歩兵連隊はマースワール運河にかかる橋を押さえる任務も負っていた。
しかし、マルデン(写真上:51 47 05 N 5 50 26 E)及びハーテルト(写真下:51 48 23 N 5 48 57 E)の橋は米軍が到達出来る前に爆破されてしまった。

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第504パラシュート歩兵連隊はマースワール運河のフーメンの水門橋を確保すべく西側から夜襲をかけ、1900に確保した。
間もなく橋の東側にも第505パラシュート歩兵連隊のパトロールが到着し、水門橋は米軍の支配下となった。
水門橋自体は撤去されてしまっており、現在は水門だけなのでここではマースワール運河を渡れない(100m北にかかる道路橋は戦後のもの)。
51 46 06 N 5 51 09 E
しかし、本命となる、予定の回廊(コリドー)でマースワール運河を渡るhoninghutjeの橋は17日には確保出来なかった。

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アメリカ陸軍第82空挺師団の第505パラシュート歩兵連隊の一部はグルースベークの町の南にある、パラシュート降下場Nに降り立った。
51 45 53 N 5 56 19 E
第505パラシュート歩兵連隊の任務は降下地点の東一帯に広がるグルースベーク高地とライヒスヴァルトの森の確保であり、地元レジスタンスの協力もあり無事任務を果たすことが出来た。
ここを拠点に東からドイツ軍が攻めてきた場合撃退することになる。
前述の通り、夜になってパトロールが第504パラシュート歩兵連隊とフーメンの水門橋で連携に成功している。
しかし、モオクでマース川を渡る鉄道橋の確保は失敗し、ドイツ軍が爆破した。

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パラシュート降下場Nの一帯はクラインアメリカと呼ばれるが、これは米軍空挺降下とは無関係で、戦前からこう呼ばれていた。
何故かドイツ空軍の訓練用コンクリート爆弾が庭先に置かれている。住民が疎開から戻った1945年に近隣の森で見つけたものだという。
51 45 38 N 5 55 26 E
パラシュート降下場Nにはアメリカ陸軍第82空挺師団の司令部、第505パラシュート歩兵連隊の一部及び工兵隊、そして下記の軍団司令部が降り立った。

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軍団長の英陸軍ブローニング中将も、パラシュート降下場Nにホルサグライダーで着陸した(パラシュート降下場の割当なのにグライダーで降りていいのか...)。
グライダー降下し司令部を設置した場所近くに記念碑が設けられている。
51 45 48 N 5 56 34 E

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アメリカ陸軍第82空挺師団第508パラシュート歩兵連隊はグルースベーク北東に広がる広大な草原に降り立った。
51 47 43 N 5 57 00 E
ここはパラシュート降下場及びグライダー着陸場で、第505パラシュート歩兵連隊の主力もここに降りた。
一帯の高地を確保しドイツ軍の反撃に備えた。
しかし、ナイメーヘンにかかるワール川の道路橋確保については、命令の誤解があり行動開始が遅れた。
結局2030になり第508パラシュート歩兵連隊から2個中隊が橋に向かったが、橋の手前400mでドイツ軍の第10装甲師団に行く手を阻まれて進撃できなかった。


【英陸軍第1空挺師団戦区】
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17日の主力である第1空挺師団第1パラシュート旅団のグライダーとパラシュート兵が降り立った草地。
パラシュート降下場X、グライダー着陸場X及びZに当たる。
51 59 45 N 5 45 02 E
英陸軍第1空挺師団によるアーネム地区での降下作戦は、グライダー着陸により始まった。
師団指令のアーカート少将も元々は歩兵出身でパラシュート降下の経験が無く、グライダーで降り立った。
続いてパラシュート部隊が降下し着陸した。

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ホルサグライダーからジープを降ろす作業を再現した模型。
オランダのWings of Liberation博物館の展示。

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1940年、当時大尉だったフロストが配属先のイラクから英国に帰国する際、狩猟クラブ「Royal Exodus Hunt」からこの狩猟用角笛を贈呈された。
マーケットガーデン作戦に第1空挺師団 第1パラシュート連隊 第2パラシュート大隊の指揮官としてパラシュート降下場Xに降下したフロスト中佐はこの笛を吹いて部下を終結させた。
その後戦闘と降伏のドサクサで笛を紛失してしまったが、戦後アーネム道路橋周辺の瓦礫を片付けていたオランダ人が見つけて1997年になってからオーステルベークの空挺博物館に寄贈した。

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第1空挺師団のグライダー旅団は、グライダー着陸場Sに着陸した。
52 00 49 N 5 47 09 E

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1600までに、KOSB(King's Own Scottish Borderers)連隊第7大隊の兵は、翌日18日の1000に予定されている2回目の空挺作戦の為のパラシュート降下場Y「Ginkelse Heide」を確保し守りについた(17日にはここには降りていない)。
52 02 05 N 5 44 09 E
しかし、空挺降下着陸に適した、広く開けた場所を守っているということは「この後ここに降りてきますよ」とドイツ軍に大声で通知している様なもので.....

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この近郊にSS第16教育補充機甲擲弾兵大隊が配置されており、英空挺部隊の到来時は森で演習中であった。指揮官のクラフト少佐はこのウォルエーアー通りの北東側沿い(写真左)に防衛線を構築していた。
アーネム防衛責任者のクッシン少将はクラフト少佐と面会し援軍派遣を約束した後、(クラフト少佐が止める様アドバイスしたにも関わらず)ウォルエーアー通りをアーネム方向(写真手前から奥方向)に向かった。
写真奥のT字交差点で、アーネム方向にユトレヒト通り(「タイガー」ルート)を進撃する(写真右から左)英第3パラシュート大隊の先鋒と鉢合わせとなった。
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運転手は急停止しバックで逃げようとしたが車上の全員が射殺された。
迷彩塗装されたフランスのシトロエンのドアから外に体を仰け反らして死亡している将軍の写真はあまりにも有名。
結局この日、英第1パラシュート旅団第3パラシュート大隊はアーネムに到達できず、オステルーベークで足止めを食らう。

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シュピンドラー戦闘団がドライエンセ通りの東側一帯に防衛線を張った(写真左側)。
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ここまで到達した第1パラシュート大隊も先に進めなくなってしまった。

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英陸軍第1空挺師団長のアーカート少将。
彼はグライダーで着陸すると、この日降りてくる主力の第1パラシュート旅団の着地を見守った。
師団直属の通信兵は近辺にいるはずの他の部隊と無線通信ができない事に気づく。
無線連絡が出来ないので、少将自らジープを運転し、グライダー連隊長ヒックス准将に直接合いにグライダー着陸場に向かったが准将は不在だった。
このままでは状況が判らない…
今度は第1パラシュート旅団のラスベリー准将を探しに出かけた。
同旅団司令部は既に隷下の第2大隊(フロスト中佐指揮)と共に一番南の進撃ルート「ライオン」をアーネム方向に進んでいた。しかしこの集団にラズベリーはいなかった。
アーカイトは真ん中の進撃ルート「タイガー」に移り、第3パラシュート大隊と行動を共にしていた(旅団司令部とは行動を別にしていた)ラズベリー准将と無事合流した。
結局夜になりドイツ軍の砲火が激しくなり、アーカイト少将とラスベリー准将はオステルーベークのハルテンシュタインホテルの西800m近辺で夜を明かすことになった。

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第1空挺師団 第1パラシュート連隊 第2パラシュート大隊はフロスト中佐の指揮下、1500頃降下場を出発し、割り当てられた一番南の進撃路「ライオン」をアーネムの道路橋に向かった。
写真はフロスト隊が橋に向かったルートで森の中を通る。
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降下場から橋の北側までは約13kmの道程(Googleマップ調べ)。
普通に歩くと3時間程度かかるので、空挺隊員でも何でもない私は当然自動車で走りました。

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市民の歓迎を受けながら街中を行軍する英陸軍の空挺師団のコスプレ。
オランダではなく、ベルギーのバストーニュで行われたパレードでの撮影。
アルデンヌの戦いではドイツ軍の進撃を抑えるため、ミューズ川のディナン〜ナミュール防衛線に第6空挺師団が配備された。

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アーネム西でネーダーライン川を渡る鉄道橋は、フロスト中佐の大隊が近づくと共に、目の前でドイツ軍が爆破した。
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鉄道の下をくぐるトンネル。フロスト中佐の第2パラシュート大隊はここをくぐりアーネムに向かったが、ドイツ軍が周辺に待ち伏せしており戦闘になった。
写真奥がアーネム方向。
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このトンネルは1875年〜78年にかけて、ナイメーヘン〜アーネム間の鉄道建設と同時に作られたもので、1940年5月10日にドイツ軍の進撃を抑えるためオランダ陸軍が爆破、その後修理されていた。

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トンネルの壁には銃撃戦の跡が残る。

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アーネム道路橋の西に位置する現在のコンクリート製の橋。
「ネルソンマンデラ橋」と名付けられている。
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フロスト中佐の大隊は、画面奥から手前に向かって、ネーダーライン川沿いに川の北側(画面右側)の道路を画面手前に向かって進んだ。
マーケットガーデン作戦当時、ここには浮橋がかかっており、これも第一空挺師団の攻略目標の一つだったが、部分的に外されており川を渡ることができなかった。

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ドイツ軍のSS第9機甲師団 SS第9機甲偵察大隊は、アーネム近郊を離れドイツ本国へ向かう為、保有車輌は鉄道平貨車に載せられていたが、英空挺部隊襲来の為急遽荷降ろしされた。
この部隊は、グレープナー大尉指揮下、ナイメーヘン方面への偵察の為1900前にアーネムの道路橋を車輌約40輌で渡り南下(写真左から右へ)した。この時、アーネム道路橋に敵無しと報告を入れている。

その約1時間後の2000頃、英軍が橋の北端にたどり付き、北側一帯の占拠に成功する。
彼らは英陸軍 第1空挺師団 第1パラシュート連隊の700名程度(大隊1個半弱相当)で、内訳は
第2パラシュート大隊が全体の約半数
第1パラシュート旅団司令部 100名程度(ただし連隊長自身は橋にたどり着いていない)
他に第3大隊、工兵、グライダーパイロット、対戦車砲中隊(6ポンド対戦車砲4門)、偵察隊、砲撃観測隊(ただし野砲は無い)などが混ざっていた。
第2パラシュート大隊は大隊長のフロスト中佐が指揮を取り、その他の部隊は旅団司令部付のヒバート少尉が指揮していたが、翌日夜以降、援軍到着が見込めないことから階級の一番高いフロスト中佐が全体の指揮を取った。
以降、アーネム北側に立てこもる兵力をフロスト隊とする。

橋の北側を守るドイツ軍は、本当に老人と子供の高射砲隊員しかいなかった。

しかし橋の上にはトーチカがあり(写真左端の橋柱の上方部分がトーチカになっていた)、2200に対戦車チームと火炎放射チームで制圧を試みた。
火炎放射手であるウィリアムス工兵兵卒が放火を試みようとしたその時、別の兵が肩をたたいたのでビックリして手元が狂い、トーチカではなく隣の木造小屋を燃やしてしまった。ここには弾薬燃料が保管されていたのかたちまち誘爆した。
炎は橋に燃え移り、橋のペンキが一晩中燃えていたという。
結局、橋の北側(写真左)とその一帯は確保したものの、橋の南側(写真右)についてはドイツ軍が粘っており押さえられなかった。
51 58 30 N 5 54 42 E

作戦2日目(1944年9月18日 月曜日)に続く



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