戦跡散歩Home

マーケットガーデン作戦 作戦4日目
1944年9月20日 [水]

Operation Market Garden

作戦3日目(1944年9月19日 火曜日)からの続き

【米陸軍第101空挺師団戦区】
19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US101AB_05.jpg
昨日はもう少しだったのに...
前日に続き、20日の朝、ドイツ軍第107装甲旅団が再びソンにやってきて回廊を脅かそうとした。
今度はバッチリ歩兵(降下猟兵)の護衛付だ。
写真は降下猟兵のコスプレ。ベルギーにて。
まさか同じ所を攻めてくるとは思っていなかった連合軍だが、すぐに英軍戦車が応戦し、ドイツ軍第107装甲旅団は撃退された。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US101AB_02.jpg
第101空挺師団は、作戦初日の17日に師団司令部をソンの橋近くの学校(51°30'33.8"N 5°29'37.7"E 現在は劇場になっている)に設置したが、19日のドイツ軍第107装甲旅団の攻撃により破損したので、師団司令部は引越しすることになった。
写真は転居先の古城カステール ヘンケンスハーフェで、、ソンとウェフヘルの中間のシント ウーデローデ近く。
51 33 32 N 5 27 23 E

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US101AB_03.jpg
19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US101AB_04.jpg
TVシリーズ「バンドオブブラザース」で描かれている通り、回廊周辺の占領地を広げて会敵する目的で、9月19日に第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊が英第44戦車連隊と共にニューネンに向かった。この日、ニューネンの東にいた敵の第107装甲旅団と交戦する。
多大な損害を出した同中隊はトンゲルレに退却し、20日には代わりにD,F中隊がニューネンに送られた。
結局ニューネンは21になって開放された。
写真はニューネンにある追悼の碑で、第506パラシュート歩兵連隊E中隊の犠牲者と、20日の戦闘で戦死した英第44戦車連隊クロムウェル戦車の乗員が記されている。
51 28 13 N 5 32 43 E


【米陸軍第82空挺師団戦区と英陸軍第XXX軍団】
19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_03.jpg
ナイメーヘンの町は、過去に連合軍による爆撃を受けている。
1944年2月20日〜25日にかけて、ドイツ空軍殲滅強化週間として「アーギュメント作戦」を実行した。これは米、英の航空兵力によるドイツ空軍飛行場、航空機工場への集中攻撃で、その一環で22日にアメリカ陸軍航空隊の第8空軍 第2航空師団がドイツ・ゴーダにある、メッサーシュミットBf110を主に生産しているゴーダ社の工場を爆撃しようとしたが、オランダ上空を通過しドイツ領上空に入ったものの、目標上空悪天候の為引き返すことになった。
第20爆撃航空団 第446爆撃航空群所属のB-24爆撃機 37機は、経験不足のクルーが多く、悪天候と強風の影響もあり旋回反転は難かしかったが3つのセクションに分かれて何とか実行した。
別の航空団に所属している、本来の編隊からはぐれてしまった迷子の2機(第453爆撃航空群所属)が編隊に加わった。
編隊は帰りの駄賃に、と爆撃に適した目標を探した。
ゴーダに到達出来ない場合、第2候補として50km手前のエッシュヴェーゲが与えられていたがここも反転してしまったので到達できない。第3候補は指定無く、戦略的に価値のありそうな場所を「適宜」爆撃することになっていた。
第446爆撃航空群の1つ目のセクションはオランダ国境沿いのドイツの町、ゴッホに爆弾を落とした。
2つ目のセクションは適当な目標を見つけられなかった。
そして3つ目のセクションはドイツの町、クレーヴェを爆撃目標とした。
しかし実際にはそこはクレーヴェではなく、10km西のオランダのナイメーヘンだった。
(間違えたのではなく、クルーの少なくとも一部はナイメーヘンだと認識していた。更にナイメーヘンはドイツの町であると思い込んでいる者も多かったらしい。)
ナイメーヘンの町では、上空をドイツに向かう米爆撃機が通過する時、空襲警報を発令していた。そして警報を解除して人々が壕から出てきた所に引き返してきた爆撃機が到来した。
そこに爆撃が行われた。町の西側にある鉄道操車場を狙ったが、実際にはかなりの爆弾が町の中心部に落ちた。
第453爆撃航空群の2機は対人クラスター爆弾を搭載しており、第446爆撃航空群の12機が落とした通常の500ポンド爆弾12発/機以上に民間人の死傷者を出した。
町の多くが破壊され、写真中央の聖ステファン教会 51 50 53 N 5 51 46 E も塔が破壊された。
消火活動に手間取り、死者800名(更に多いという説も)の多くは火災で死亡したと言われる。重傷者300名程度。
占領軍であるドイツはこの爆撃をプロパガンダに最大限に利用した。

爆撃から7ヶ月後の1944年9月20日の早朝、英軍擲弾兵近衛連隊の戦車と、米第505パラシュート歩兵連隊第2大隊の落下傘兵が協同してナイメーヘンの町西側(画面外右)にいたドイツ軍を追い出しにかかった。これは比較的上手くいき、間もなくドイツ軍の組織的な抵抗は排除できた。
渡河の下地は整いつつあった。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_04.jpg
渡河の為第504パラシュート歩兵連隊が待機した発電所
当時の発電所は今よりもやや手前 51 51 29 N 5 49 58 Eにあり。。
本当は夜明け前の暗い内に渡河したかったがボート(ベルギーからコリドーを通ってトラックで運んでくる)の到着が間に合わないとのことで、渡河時間を0800に設定した。
しかし到着の見込みが無いので1100に延期した。それも無理そうなので1330、それも1500に設定し直した。
1440にやっとトラックが到着した。当初32隻到着の予定だったが、途中トラックがドイツ軍の攻撃にやられて、結局26隻しか無かった。

本当は発電所横の、マース ワール運河の河口が入り江状になっている所で操船の練習をしたかったのだが(何せ空挺部隊なのでボートによる上陸作戦は想定・訓練対象外だったのだ)時間が無いのでぶっつけ本番とする。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_09_s.jpg
渡河地点のパノラマ(縦の比率を2.3倍大きくしてある)。クリックで拡大。

渡河の前処理として、英空軍のタイフーンが北岸(写真手前側)に立てこもるドイツ軍陣地と思わしき場所を地上攻撃した。
次にアイルランド近衛連隊の戦車、近衛機甲師団付の砲兵隊、第82空挺師団付の野砲隊による、計100門程が対岸(写真手前側)のドイツ軍陣地を砲撃し、煙幕を張った。
アメリカ陸軍第82空挺師団第504パラシュート歩兵連隊第3大隊が先陣となり、前代未聞の「パラシュート兵による敵陣上陸作戦」が開始された。
ボートの操舵は、扱いに慣れている第82空挺師団の第307工兵大隊が行った。
(工兵は橋をかける時にボートでまず川渡る必要がある)
26隻のボートには各々12名程が乗り込んだ。
1503に第3大隊長のクック少佐がホイッスルを吹き、川岸にボートを担いで走る兵を先導した。
オールが圧倒的に不足していたので、銃床で漕いだ。
川幅250m程で、川の流れが強く(時速13km)、皆下流(画面右方向)に流されながら渡河した。
風で煙幕が流れ、空挺隊員はドイツ軍から丸見えになった。
銃弾や砲弾に容赦なく襲われ、兵は濡れ、多くは死傷し、ボートは浸水した。
第3大隊長のクック少佐は敬虔なカトリックで、ボートを漕ぎながらHail Mary, full of grace (恵のマリア様万歳)を繰り返し唱えた。

一旦対岸(写真手前)で兵と装備を降ろすと、工兵の操るボートは発電所側に戻り、再び兵を乗せてやってきた。シャトル輸送する度にボートが沈没して数は減っていった。
6往復により、第504パラシュート歩兵連隊の第3大隊(G中隊を除く)、大隊司令部、第1大隊を送り込んだ。
更に第376パラシュート野砲大隊の迫撃砲、対戦車砲も渡河させた。
尚、第504パラシュート歩兵連隊第2大隊は近衛機甲師団の戦車と共に渡河の援護に当たった。

発電所の建物9階からブローニング中将、ホロックス中将、ギャビン准将、第504パラシュート歩兵連隊長のタッカー大佐、アイルランド近衛連隊第大隊長G.A.D. ヴァンデルーア中佐(J.O.Eの従兄弟)らが渡河を見守った。

尚、ナイメーヘン道路橋混雑緩和の為、この渡河場所に現在は橋が建設されており、更に幅150m程の放水路を北側(画面手前)に追加した為、現在はこの写真撮影の時と比べて景観が著しく変わっている。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_23.jpg
渡河に使われたのと同型の英軍の攻撃舟艇Mk.V型で、ベニアの船底に布製の側面を張った折りたたみ式 無動力のもの。
全長16'8"(5m) 幅5'5"(1.6m) 重さ350ポンド(160s)
通常兵11名と乗組員2名でオール8本+操舵1本のはずが、オールが圧倒的に不足していた。
英陸軍近衛機甲師団の工兵隊が所有していたものを米軍に供与した。
National Liberation Museum 1944-1945(その後Freedom Museumに改名)の展示品で実際に上陸作戦に使われたものかは判らないとのこと。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_22.jpg
気迫迫る渡河作戦を再現した実物大ジオラマ。National Liberation Museum 1944-1945の展示。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_06.jpg
19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_05.jpg
北岸にある渡河記念碑と、渡河作戦中に戦死または負傷が元で死亡した兵48名のリスト。
記念碑の除幕式にはギャビン退役中将も出席した。
51 51 49 N 5 50 50 E

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_08.jpg
何はともあれ、初陣で上陸した第504パラシュート歩兵連隊第3大隊は、着剣して東に向かって突撃を開始した。
上陸地点のすぐ北東には堀(写真中央左に堀を渡る橋が見える)で囲まれた17世紀のホフ ファン ホラント砦があり、ドイツ軍はここに20mm機関砲を構えていた。
51 51 44 N 5 51 08 E
ここを避けて突撃する様命令されていたが、やはり機関砲攻撃が気になり、H中隊が迫撃砲と手りゅう弾で攻撃し、1700過ぎに制圧した。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_07.jpg
1700頃、ナイメーヘン鉄道橋の北側(写真左)を確保する。
鉄道橋のオリジナルは1878年に完成したもので、3つのアーチから構成されていた。
1983年に現在のアーチ1個に交換され、(それに伴い川中の橋柱2個を撤去)その後橋の東側(写真奥)に自転車・歩道が追加された。
橋柱土台の内、下方部分はオリジナルのまま。
51 51 07 N 5 51 24 E
尚、橋の南側周辺(画面右)は20日の午後の早い時間に英軍擲弾兵近衛連隊と米第505パラシュート歩兵連隊第2大隊の協同作戦で確保されていた。
鉄道橋の上には相当数のドイツ兵がいたが、南北を連合軍に押さえられると相当数が北に(画面奥から手前方向)渡り、米軍に射殺されるか捕虜になった。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_13.jpg
鉄道橋の上から道路橋方向を見る。
鉄道橋を押さえた米軍パラシュート兵は、本命である道路橋の北側を確保する為に進撃した。
51 51 17 N 5 51 29 E
この場所も現在は放水路の建設で大幅に景観が変わっている。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_15.jpg
米軍は道路橋の北橋に到着し、土手を登って橋に繋がるランプ上に出た。
そこにはドイツ兵がいたが、すぐに降伏した。
51 51 14 N 5 52 10 E
現在は土手は無くなっている。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_10.jpg
南岸では、道路橋の南側に粘るドイツ軍を追い出す準備も進められていた。
20日の0830に擲弾兵近衛連隊が街中の細い通りを通り、ファルクホフ 51 50 52 N 5 52 12 E の西側を確保した。
英軍擲弾兵近衛連隊の歩兵が戦車と共にがファルクホフと隣のフンネル公園 51 50 48 N 5 52 22 E (写真で川向こうの右から中央にかけて)を攻め、一方、米第505パラシュート歩兵連隊第2大隊がフンネル公園の南(橋の奥)から攻撃を加えた。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_12.jpg
フンネル公園にあるこの塔(Belvedere)はドイツ軍が見張り及び砲撃観測に使った。
51 50 51 N 5 52 21 E

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_11.jpg
米第505パラシュート歩兵連隊第2大隊は英軍擲弾兵近衛連隊の戦車と共に、この交差点(当時はよりはっきりしたロータリーになっていた)の奥から手前に攻めてきた。
51 50 43 N 5 52 25 E
ドイツ軍のSS第10装甲師団オゥリング戦闘団はここに自走砲を備えて待ち構えていた。
フンネル公園は撮影場所の右手から後方にかけて広がる。
ドイツ軍は砲撃で進撃を抑え、しばらく膠着したが、1600に戦車と着剣した歩兵がいっせいに突撃してきてドイツ軍の防衛が崩壊した。
続いて公園に残っているドイツ兵は米英の歩兵が少しづつ排除した。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_14.jpg
イギリス軍戦車の視点。
ロビンソン軍曹の指揮するシャーマン戦車4輌が橋を確保する為北に向かった。
ロビンソンの車輌はシャーマンファイアフライ、他3輌は75mm砲装備。
すぐ後ろを、橋の爆破装置を解除する目的で工兵が続いた。
前方は煙でよく見えなかった。
頭上の、橋のアーチ部分にハーネスで体を縛り付けたドイツ兵が沢山いた。
これは狙撃兵ではなく、橋を爆破させるためのケーブルを点検修理していた工兵ではないかと言われる。
彼らは英軍戦車からの機銃掃射の餌食になり、道路や川に落ちた。
橋の向こう側(写真奥方向)にいた米軍もアーチに潜むドイツ兵と交戦している。
橋のアーチ構造部は現在はベージュ色だが、当時の写真では暗く写っており緑色だったとのこと。
51 51 04 N 5 52 17 E

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_17.jpg
19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_16.jpg
SS第10装甲師団長のハーメル大佐は、米軍渡河開始の一報と同時にナイメーヘン対岸のレントに向かった。
モーデル元帥の「反撃に使うので爆破しない様に」という命令に反し、道路橋は英軍戦車が渡っており、このままでは橋を占拠されてしまうので橋の爆破命令を出した。
しかし、結局橋は爆破出来なかった。
写真は師団長が爆破命令を出したとされる橋近くのブンカー。
51 51 24 N 5 52 24 E
周辺の治水工事に伴い現在は大幅に景観が変わった模様....

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_20.jpg
17日の午後から20日の夕方まで、ドイツ軍がナイメーヘンの道路橋を爆破するチャンスはいくらでもあった。
実際に爆薬を仕掛けており、20日に橋を英軍戦車が渡りだしていよいよヤバくなり、いざ橋を爆破しようとしたが爆破しなかったのは上記の通り。
起爆装置の故障で爆破できなかったとも、戦闘の砲撃でケーブルが切れたからとも言われるが、オランダ人の学生でレジスタンスのファン ホーフが18日にケーブルを切断したからという伝説もある。
彼は翌19日にホテル「シオンの家」に出向き、英擲弾兵近衛連隊のハンバースカウトカーに同乗し、ナイメーヘン市内を偵察案内している時にドイツ軍の銃撃を受け英兵は戦死、ファン ホーフはドイツ軍に捕まり間もなくゲリラとして処刑された。
オランダ人はファン ホーフを「橋を救った英雄」と祀り、写真のフンネル公園前のオブジェ像 (51 50 44 N 5 52 24 E:ドイツ軍の88mm砲が粘っていた場所でもある)を設置した他に、橋の北東側の欄干にレリーフ (51 51 09 N 5 52 15 E)、街中の処刑場所に慰霊タイル(51 50 55 N 5 51 25 E)を置いて追悼している。
写真右上の銅像のオジサンは、ローマ帝国の皇帝トラヤヌスで、西暦104年ナイメーヘンにオランダでは初めての都市権を与えた(←知らねーよ、そんな大昔の事)。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_18.jpg
北側にあったドイツ軍の高射砲はシャーマン戦車の砲撃により無力化し、シャーマン4輌は無事に橋を渡った。
1915に橋の北側の米第82空挺師団と合流し、ナイメーヘン道路橋の確保は成功した。
ナイメーヘンの道路橋はドイツ軍が爆破できず、戦後もかけ直されていないので、1936年に開通した橋のままだ。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_19.jpg
ナイメーヘンでの戦闘を記念して置かれたドイツ軍の対戦車砲。
51 50 51 N 5 52 21 E
よくある75mmではなく50mm砲なのが珍しい。
橋が連合軍に陥落した20日の夜、ナイメーヘン道路橋の守備隊長オィリング大尉は敗残兵を引き連れて燃え盛る司令部(現ナイメーヘン博物館)を抜け出し、川沿いの、橋の下をくぐる道を画面左から右に抜けて包囲を免れ、味方前線にたどり着いた。この功績によりオィリング大尉は騎士鉄十字章を授与された。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_US82AB_21.jpg
擲弾兵近衛連隊所属の、ロビンソン軍曹の率いるシャーマン戦車4輌はその後、ナイメーヘン道路橋を渡って前進した。
教会 51 51 40 N 5 51 54 E の前にドイツ軍の砲がありこれを排除した。
途中、シャーマン戦車2輌が敵の対戦車砲弾やパンツァーファウストの洗礼で動けなくなった。
更にエルスト方向に進むが、ナイメーヘン道路橋から1.5km程度進んだ所(現在ナイメーヘンレント駅がある辺り 51 51 50 N 5 51 31 E :写真の教会の尖塔の左奥)にドイツ軍は対戦車砲を構えており、ここで進撃は停止する。
米軍は直ちにエルスト、そしてアーネム方面に進撃して英空挺師団と合流する様に急かすが、英軍は歩兵の護衛が到着していない、進撃命令が出ていないという理由で前進しなかった。
「あいつら紅茶休憩ばかりしてやがる」「第3大隊が多大な犠牲を出して橋の北側を確保したのに」「護衛なら我々がするのに」は米軍の愚痴。
「戦車は歩兵の護衛がないと進撃できない」「暗くなってこの先何があるか判らない」「米軍とは協同訓練していないので護衛は当てにできない」「弾薬不足」「そもそも米軍がもっと早く橋を確保していれば」は英軍の言い分。
結局翌21日の1100にアイルランド近衛連隊が先頭を交代するまで、第XXX軍団の進撃は無かった。


【英陸軍第1空挺師団戦区】
19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_B1AB_02.jpg
第4パラシュート連隊 第11大隊指令のロンスデール少佐指揮の下、雑多な部隊が19日からライオン進撃路上の、オスターベーク境界線と鉄道橋との間で防衛線を張っていた。
第1グライダー連隊サウススタフォードシャイヤー連隊第2大隊所属のバスキーフィールド軍曹代理は、20日の午後、6ポンド対戦車砲のチームを指揮して敵タイガー戦車を30mの至近距離までひきつけた所で砲撃して2輌を撃破し、敵自走砲も少なくとも1輌を破壊した。
この時の戦闘でチームの他の兵は死亡または重傷となり、バスキーフィールド自身も足に負傷したが病院搬送を断り、敵の進撃を止めるべく砲撃を続け、これが破壊されると別の6ポンド砲に這りほぼ単独でこれを操り射撃を続けた。
午後にこの場所は放棄され、ロンスデール少佐の隊はオスターベーク境界線へと後退した。バスキーフィールドは戦死し遺体は見つかっていない。彼には英連邦軍最高栄誉のヴィクトリア勲章が授けられた。
この戦闘のあった所に記念プレートがある。ドイツ軍は後方より攻めて来た。
51 58 46 N 5 51 05 E

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_B1AB_01.jpg
英軍の6ポンド対戦車砲。
グライダー着陸場第1空挺師団はグライダーでこれを持ち込んだ。
空挺作戦の記念に、グライダー着陸場Zの近くに物資投下用コンテナ等と共に置かれている。
アーネム地区に最初に建てられた記念碑とのことで、当初は台座と車輪が無かった。
51 58 57 N 5 45 39 E

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_B1AB_03.jpg
こちらはフロスト隊の立てこもるアーネム鉄道橋地区。
橋の北東側の土手脇に学校があり、17日の夜以降、英第1空挺師団の工兵中隊と第3大隊が占拠していた。
51 58 37 N 5 54 53 E
18日にドイツ軍は火炎放射器で学校とその北隣のオフィスビルに火を放ったが、英軍工兵は何とか火を消し止めた。
ドイツ軍は更にパンツァーファウストを打ち込み、抵抗は無くなったと判断して19日の0300に建物に近づいた。
突然工兵がドイツ軍に発砲し、死傷者20数名の損害を与えた。
翌日20日に戦車や榴弾砲の攻撃を受け、英軍は弾薬水食料が不足しており、死傷者多数で玉砕寸前だった。戦えるものは13名程度だったが皆何らかの負傷をしていた。指揮官のマッケー大尉は「各自の判断で行動せよ」と命令した。

19440917_A_Bridge_Too_Far_4_Day4_B1AB_temp.jpg
アーネム道路橋全景。
51 58 29 N 5 54 42 E
初日にフロスト隊が橋を占拠してから丸3日たとうとしていた。
これまで東(画面左億)から、そして北(画面左)からが中心だったドイツ軍の攻撃は、今や西(画面手前)からも行われるようになった。更に、川の対岸(画面右)からも砲撃を受けていた。
フロスト隊はかなり弱っていた。増援は来ず、補給物資は届かず、ナイメーヘン方面で戦闘が行われているのは判かったが地上軍は到来していなかった。
第1師団本部との無線連絡に成功するが、師団本体はオステルベークでドイツ軍に囲まれつつあり、彼らもどうにもフロスト隊を助けられなかった。
4門あった対戦車砲は2門しか残っておらず、これらも敵歩兵の射程圏内に入ったので使えなかった。
東側(左億)の防御地点は殆どドイツ軍に制圧され、ドイツ軍は橋をくぐり西側に攻めてきた。
万一ナイメーヘンからの地上軍が到達した時に備え、ドイツ軍はアーネム道路橋にも爆薬を仕掛けた(後日簡単に修理できる様、橋本体ではなく北側のランプ部)。
英軍工兵は敵弾の飛び交う中、慌てて爆薬を外しに出た。
この時工兵が移動できる様、第2大隊A中隊第2小隊長グレイバーン大尉は自ら囮となり敵の狙いを引き付け負傷し、応急処置を受けると再び敵の狙いをそらす為、今度は敵戦車の前に立ちはだかり、車載機銃で殺された。
17〜20日にかけての功績により、グレイバーン大尉は英連邦最高位のヴィクトリア勲章を授かった。
1330にフロスト中佐が負傷し、指揮を偵察中隊のゴゥ少佐と交代する。
ドイツ軍は建物に次々と火を放ち、英軍の持ち場は旅団司令部の入っている建物周辺に集約されてしまい、当初の1/5程度まで縮まり、全滅の危機に瀕していた。
この日の午後遅く、ドイツ軍はついにアーネム道路橋を奪還し、戦車や兵員輸送車が橋を渡って南下を開始した。
これでナイメーヘンからの英第XXX軍団の北進をより効果的に防ぐことができるようになった。
(それまでは上流で艀による渡河を行いナイメーヘン方面に兵力を送り込んでいた)

英軍残党が立てこもる旅団司令部の建物等にも火が放たれ、フロスト中佐を含む負傷者250名を避難(=捕虜となる)させるため午後遅くに2時間の停戦が行われた。
その後戦闘が再開されたが、もはやアーネム道路橋の英空挺師団は壊滅状態であった。

当初740名程で橋の北側周辺を占領したが、今や100名程に減っており、その殆どが負傷していた。
彼らは翌21日の早朝、弾薬が切れてドイツ軍に投稿し、アーネム道路橋北側の占拠は事実上終焉となった。

作戦5〜9日目(1944年9月21日〜25日)へ続く (製作中)



戦跡散歩Home

Copyright 2019 Morimoto, Makoto : All Rights Reserved.
本ページの写真、文章の無断転載をお断りいたします。

inserted by FC2 system