早速、地上軍は近衛機甲師団を先頭に進撃を再開した。 Wings of Liberation博物館での展示。 |
前々日に確保していたグラーヴェの橋でマース川を渡る。 51 46 09 N 5 44 09 E 橋梁自体は当時のものをそのまま現在も使っている。 現在は、手前から奥(ナイメーヘン方向)にかけて、上部フレームが赤→燈→黄→黄緑→緑に変化する様塗装されている。 一見虹の様だが、虹なら更に奥に青緑、青、藍色、紫と続くはず。 一般に虹は7色で表現され、「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」だが、実際には連続したグラデーションで、色の滑らかな変化は光の波長の変化によるもの。赤の波長が長く、紫側短い。虹は外が赤、内側が紫。この赤〜紫までの範囲が可視光線。 虹色の旗はLGBT支持者のシンボル。私は理解者ではありませんので悪しからず。 |
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予定外のオーフェラッセルト(写真上 51 45 40 N 5 47 25 E)、フーメン(写真下 51 45 51 N 5 50 35 E」の村を通過する。 |
この先にロータリーがあり、左方向から本来進軍予定だった回廊と合流する。直進するとナイメーヘンの旧市街、右折するとナイメーヘンの道路橋を渡り本作戦目的地のアーネムに至る。 51 50 19 N 5 51 36 E |
51 50 47 N 5 52 23 E ここには作戦初日の17日の夜、第508パラシュート歩兵連隊第1大隊が確保にやってきたのだが、既にドイツ軍(SS第10装甲師団の一部)がおり手が出せず、以降日に日にドイツ軍は増強されており(パンネルデンでライン川を渡ってやってきた)、一方でアメリカ軍はグルースベーク周辺の防衛で手一杯の為大規模な攻撃が出来なかった。 19日午後、ナイメーヘン地区に到着した英第XXX軍団の擲弾兵近衛連隊と協同で制圧を試みたが駄目だった。 しょうがない、今日のXXX軍団の進撃はここまで。 でも本日はかなりの距離(ソンの橋から60km:Googleマップ調べ)を進んだ。 遅れを大分挽回できた。もう少しだ、明日頑張ろう.... |
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51 39 55 N 5 22 08 E 9月18日に英軍のグライダーが、19日に米軍のグライダーが敵地であるデンダンゲンに墜落した。 米軍グライダーに搭乗していた第101空挺師団第907野砲大隊のトゥシグナント兵卒は死亡したが、他の乗組員は地元民に匿われた。 英軍グライダーパイロットのダン グリフィスは戦後この地を訪問し、故郷である英国ポーティスヘッドとダンデンゲンとの交流を深めた(姉妹都市になっている)。 この記念碑にはグリフィスとトゥシグナントの名前が記載されている。 |
しかしこの時点で既にマーケットガーデン作戦が始まっており、急遽こちらの戦線に向かうことになった。 アイントホーフェン中心部を抜けソンに向かう連合軍の回廊を攻撃する為、ニューネンを経由し、ここでドンメル川を渡ろうとした。(写真奥がアイントホーフェン方向) 近くに住む庭師の ウィレム ヒクスホールスが「あんたら、この橋は戦車なんか渡れないよ」と指揮官のフォンマルツァーン少佐に言った。 ドイツ軍はそのままニューネン方向に引き返した。 現在橋はコンクリートの橋柱で架け直されているが、ウィレム ヒクスホールス橋と名づけられ、「この橋の弱さが神の与えた強みとなり、敵が引き返し、我々は救われた」とのプレートがある。 |
写真奥方向 川の右岸(南側)の堤を、1700過ぎ頃、第107装甲旅団のパンサー戦車5輌が縦列隊でこちらに向かってきた。 51 30 19 N 5 29 44 E パンサー戦車の機銃、主砲が隊列の車両、仮設橋、周辺の建物(第101空挺師団司令部が橋の北側にある学校に置かれていた)に向け発射された。 丁度橋を渡っていたトラックが炎上、橋自体にも命中弾があり、付近にいた第XXX軍団及び第101空挺師団は大パニックとなった。 |
橋までの距離は200m程度。実際にパンサー戦車がこの辺りまで進出し、米第101空挺師団の司令部が慌てて持ってきた57mm対戦車砲(数時間前にグライダーで到着したばかり)とバズーカ砲によりパンサー2輌が破壊された。 周辺は暗くなり、深入りは危険と、残りのパンサー戦車はこの日は逃げ出した。 51 30 19 N 5 29 45 E |
19日の夜、アイントホーフェン上空にドイツ空軍KG2及びKG30所属の爆撃機70機以上が飛来し、町は40分に渡り爆撃を受けた。 町はXXX軍団の到着から丸一日を経ていたが連合軍の対空砲は殆ど配備されておらず、効果的な迎撃が出来かった。 この爆撃で220人程の死者(全員民間人)と80名程の負傷者が出た。 開放されなかったら爆撃も受けなかったのに....というのは住人の本音だろう。 前の日には英第XXX軍団の市内通過を遅らせるほどに盛大に歓迎していたのに… 写真はアイントホーフェン市内の開放記念モニュメント。 落とし物を探している様にしかみえない3人は兵隊、レジスタンス労働者、民間人を表す。下にはドイツ兵と抵抗する人達。 51 26 08 N 5 28 47 E |
1891年創立のフィリップス社は電球を中心に生産し、ラジオ、レントゲン装置など商品を広げていった。 第二次世界大戦でオランダがドイツ軍に占領されると経営者幹部は動かせる資産を持って米国に避難した。 一方アイントホーフェンにある工場の操業は続き、ドイツ軍向けの物資生産にも協力した。 会社はユダヤ人を積極的に雇用し、ドイツ軍が捕まえに来ると「操業に必要な人材で代わりはいない」と追い返した。 連合軍は、ドイツ軍の使っている真空管の1/3はフィリップスが生産していると推定し、爆撃することにした。 市街中心付近にある工場なので夜間爆撃では周辺への被害が甚大と想定され、休日昼間のピンポイント爆撃とした。 1942年12月6日(日)、超低空飛行で海峡を渡り目標に接近した英空軍の8個飛行中隊の爆撃機(ボストン、ベンチュラ、モスキート)計93機が、アイントホーフェンにあるエマシンゲル工場(写真奥:51 26 22 N 5 28 25 E)と、ストレイプ工場(51 27 28 N 5 26 04 E)を1230から数分間という短時間の間に攻撃した(オイスター作戦)。 その結果フィリップスの工場生産力復帰までに半年を要したという。 英空軍の損失は撃墜・墜落15機。 |
第82空挺師団長のギャビン准将、同師団と共に到着していた空挺軍団指令のブローニング中将も、この日の午後ホロックス中将と面会した。 しかしながら、第82空挺師団は要衝である肝心のナイーメーヘンのワール川にかかる橋を確保できていない。 写真の第82空挺師団による開放記念碑には「任務達成」と書いてあるが、19日の時点では達成には程遠い状態だった。 51 46 03 N 5 56 17 E |
川を渡る任務は第504パラシュート歩兵連隊に与えられ、同隊は19日の夜にグラーフェを離れてナイメーヘンに向かって移動した(グラーフェ近辺の回廊の守りは英軍ウェールズ近衛連隊が担うことになった)。 一方、英軍擲弾兵近衛連隊の戦車と、米第505パラシュート歩兵連隊第2大隊が協同して橋の南側を確保することになり、後者は前者の指揮下に入った。 (米第505パラシュート歩兵連隊第2大隊が抜けた穴は英コールドストリーム近衛連隊が埋める) 英擲弾兵近衛連隊の戦車と歩兵が19日の昼頃にナイメーヘン郊外のホテル「シオンの家」に到着し、米第2大隊と合流し、出発した。 写真はホテル「シオンの家」と、その壁にかかる記念レリーフ。 51 48 44 N 5 53 12 E 2019現在はホテル兼和食レストラン「こんばんわ」になっており、入口には今まで無かった空挺隊員の石像が.... オランダがドイツに占領されて以来、ドイツ軍はここを司令部として使っていた。 マーケットガーデン作戦でグライダーに同乗してやって来た従軍記者はこのホテルに詰めていた。 第82空挺師団戦区では従軍記者は2名しかおらず、いずれもグルースベーク方面から攻めてくるドイツ軍との交戦を取材するのに多忙で、ナイメーヘンでの市街戦及びワールにかかる橋の奪還についてはまともに報道されなかった。 |
51 59 16 N 5 49 58 E 前々日の夜から事実上「行方不明」となっている第1空挺師団長のアーカート少将は、19日の早い時間に隠れ家を抜け出し、近くでサウススタフォードシャイヤー連隊第2大隊の兵との合流に成功し、ハルテンシュタインホテルに設置された師団司令部に行き指揮を執ることができた。 結局最後まで第1空挺師団はここを司令部として使うことになる。 戦後修復されホテルとして再び使用、1978年にアーカート立会いの下、空挺博物館としてオープンした。 |
51 59 07 N 5 53 10 E 作戦1日目の17日夜に英軍の医療部隊がここに駐留開始し、負傷者が運び込まれた。 17〜18日の夜にかけてレオパルド進撃路での進撃をSS第9装甲師団に阻まれた英第1パラシュート大隊は、南下してこの病院周辺でドイツ軍との市街戦を繰り広げた。第3パラシュート大隊はその西にいた。 18日の朝には病院はドイツ軍の支配下になっていたが、英軍の捕虜と負傷兵はそのままいた。 18日の夜に英サウススタフォオードシャー連隊・第2大隊と第11パラシュート大隊が病院周囲に到着し、兵力がまとまったので19日早朝に道路橋方向に進撃しようとしたがドイツ軍の防御が激しく進めなかった。 この日の夜、英軍は近辺から撤退しオーステルベークまで退却した。 |
しかし、19日の0600、第1パラシュート大隊は川沿いのライオン進撃路 (前々日にフロスト隊がアーネム道路橋北端に到達出来たのと同じルート。写真では手前の建物の後ろで皮の手前) を写真右から左に進んでいたところ、川の対岸にあるレンガ工場(青白の建物)からSS第9機甲偵察大隊の生き残り(昨日隊長グレープナーが戦死)による対空機関砲の掃射を受け大損害を出した。 アーネム博物館の庭から撮影。 51 59 05 N 5 53 34 E ちなみにSSが発砲してきたこのレンガ工場、現在はペイント弾射撃場になっているとのことで、それはちょっと洒落にならないのでは? 写真左奥の橋は戦後架けられたネルソンマンデラ橋で、当時は浮橋(ただし一部外されて対岸には渡れなかった)がかかっていた。 川沿いにこの近くまでは進撃できたが結局撤退せざるを得なかった。到達目標のアーネム道路橋はその先。 そういう意味では、「橋一つ分遠すぎる」(A Bridge too far)というのはガーデン作戦の第XXX軍のみならず、英第1空挺師団本隊にも当てはまったのである。 |
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道路のタイルに英陸軍空挺師団のエンブレム「ペガサス」が埋め込まれている。 51 59 07 N 5 53 34 E |
(同機は前日もホルサグライダーを曳航してアーネム地区に来ている) 投下目標地点に到達する前、機体に対空砲火が2度命中し、右エンジンから火災が発生した。 構わずに高度を900フィートまで下げ、補給物資を投下したが、コンテナ2個が未投下であることに気づいた。 この頃には火災が酷くなり、いつ翼がもげてもおかしくない状況だったが、ロード大尉は機体を反転させ、残りの物資を投下した。高度は500フィートまで下がってしまい、ついに翼が破断しウォルエーのグライダー着陸場S (下写真 52 00 52 N 5 47 12 E )に墜落する直前機外に投げ出されたナビゲーターのキング大尉を除く全クルー7名(機長、副操縦士、通信士、貨物係4名)は墜落死した。 戦後捕虜収容所から開放されたキング大尉がこの出来事を伝え、ロード大尉は英連邦軍最高栄誉のヴィクトリア勲章を死後受勲した。 |
スチル写真を撮り忘れたのでビデオからのキャプチャを掲載。さすがに15年以上前の機材なので画質が悪い。 51 59 52 N 5 52 03 E 9月19日およびそれ以降の連日、英空軍はダコタおよびスターリング輸送機でここに補給物資を投下することになっていた。 英第1空挺師団は無線機の不備により空軍に物資降下場Vが使えないことを連絡できなかった。 19日にここへの物資投下が行われたが、結果として殆どの補給物資はドイツ軍の手に渡ることになる。 また、この日、ドイツ空軍の対空砲部隊(ドイツ空軍第4高射砲師団の第46高射砲連隊を母体とするフォンズフォボダ戦闘団)がドイツのドルステンから到着して待ち構えており、連合軍輸送機に甚大な損害を与えた。 尚、この後短時間の無線連絡に成功し、20日以降はハルテンシュタインホテルおよびその近隣に物資が投下されたが、やはり多くはドイツ軍に回収された。 作戦期間を通じて第1空挺師団本隊が回収出来たのは全体の1割強と言われる。 |
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医薬品を入れており白地に赤十字となっている。 上側にパラシュートが収まり、下側に着地の衝撃を和らげるスプリングが設けられている。 空挺博物館にて。 |
担架を載せたジープもかろうじて通ることが出来た。 さすがに自分の車で通るのはやめたが.... 52 00 14 N 5 48 11 E |
しかしこの日、アーネム道路橋の南側(パラシュート降下場K)に降下する予定だった旅団指令部を含むパラシュート部隊は、出発地英国が視界不良だった為離陸できず、グライダーに搭乗した対戦車大隊のみが出発した。 グライダー着陸場Lの近隣にはドイツ軍が対空砲多数で待ち構えており、猛烈な砲火を浴びながらの到着となった。 着陸した部隊はジープでトレーラーや6ポンド砲を牽引し、第1空挺師団司令部があり、(アーネム道路橋に到達できなかった)部隊が集結しているオーステルベークに向かった。 制服は同じだが記章や帽子が異なるポーランド兵はその多くが英語を満足に話せないこともありドイツ兵と間違われて英軍に撃たれたりした。本当は同時期に発生しているワルシャワ蜂起に参戦したかったのだろうが... 写真はグライダー着陸場L。 52 00 15 N 5 49 04 E 腹に白帯の入った動物は一瞬マレーバク!?かとおもったが何のことはない、牛に防寒の白い腹巻を巻いているだけだ。 |
ポーランドのパラシュート部隊は本来、ここに降りて橋を渡り北側でアーネムの守りに付く(補充&交代)計画だった。 フロストは車両(ユニバーサルキャリア1輌とジープ2輌)を用意して出迎える用意をしていたが、結局ここには火曜日はおろか、最後まで誰も降りてこなかった。 現在は住宅地になっているが当時の写真では広大な草地だ。 初日にここに降りるという発想は無かったのか.... 51 57 48 N 5 54 46 E 橋の奥の、対岸の川岸には突堤(River groynes)が設けられている。これは川の流れる幅を狭くして航行を容易にし、川岸の侵食を防ぐもの。日本の川にはほとんど見られない。 |
写真は橋の北東側 (51 58 31 N 5 54 46 E) で、この一帯にも英軍は立てこもったが、ドイツ軍は写真奥、右方向から攻撃を加えてきた。 この日、建物に立てこもる英軍を排除するには歩兵や戦車ではなく砲撃が効果的であると判断し、ドイツ軍は砲撃、戦車(固定砲台として使用)攻撃、迫撃砲攻撃で建物を次々に破壊した。 連合軍の戦闘機がいないのをいい事に、ドイツ空軍も地上攻撃に参加した。 工兵隊のハリウェル軍曹は、少し離れた持ち場にいる味方に弾薬を運んでいた途中、ドイツ軍戦車2輌の前に出てしまい、とっさに敵戦車の下にもぐった。戦車が砲撃を開始、動き出した所、別の英兵がPIATを撃ち込んできたという壮絶な体験後、諦めて敵に降伏した。しかし間もなく、「立てこもる英軍に降伏を勧めて、回答を持って戻るように」とドイツ軍に言われ、白旗を持って(それでも味方に撃たれた)味方戦線に戻りフロスト中佐にメッセージを伝えた。結局降伏勧告は無視され、軍曹も戻らなかった(結局彼は2度目の捕虜になるのだが) この日もフロスト隊は持ちこたえたが、援軍はおろか物資の補給もなく、弾薬、食料、水、医薬品が不足しつつあった。 そして無情にも、アーネム道路橋にたどり着けないと判断した英第1空挺師団の本隊では、この日の夜、オーステルベーク周辺で守りを固めることをアーカート少将が決定する。 この為、フロスト中佐の部隊は、第XXX軍団の到来まで持ちこたえるしかなくなった。. |