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マーケットガーデン作戦 作戦2日目
1944年9月18日 [月]

Operation Market Garden

作戦1日目(1944年9月17日 日曜日)からの続き

【英陸軍第XXX軍団戦区】
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「昨日は思ったほど進撃できなかったが、今日こそは....」
前日17日に到達し、一夜を明かしたファルケンスワールト。
ここが18日の出発点となる。この教会の前に第XXX軍団の車両が待機している写真が残っている。
51 20 58 N 5 27 30 E

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進撃は朝霧が晴れるのを待ったため、0900スタートになってしまった。
アールスト手前までは問題なく進撃できたが、アールストではドイツ軍が88mm砲4門(恐らくフィリップスなどの工場〜当時はドイツ向け軍需物資も生産〜があるアイントホーフェンを連合軍の爆撃から守るために配置)を構えて待ち構えており、先遣隊は回廊を左(西)に迂回しワールレ方向に進んだ。
51 23 27 N 5 28 28 E
メールフェルドホーフェン、ウーアーレ、ウィンテルレ、アフトを経由してを迂回してウーンセルで米第101空挺師団の第506パラシュート歩兵連隊と合流した。
この時第XXX軍は始めてソンの橋が前日17日に爆破されてしまったことを知る。


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アールストの敵を排除し、英XXX軍団の主力は回廊を北進する。
アイントホーフェン市内の通過は、熱烈歓迎する市民に解放軍として迎えられ、前進が極端に遅くなった。
ストラトゥムスアイント通りを教会方向に向かう地上軍と歓迎する市民の写真が有名。
51 26 10 N 5 28 57 E

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解放軍を歓迎するオランダ市民。右端に英兵は近衛機甲師団の伍長。
クソガキが被っているのはオランダ軍のヘルメットらしい。
お父さんと長女の表情が微妙なのはナチスの協力者だったから!?
Wings of Liberation博物館にて。

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1900頃、ソンの橋(が昨日まであった場所)にXXX軍の主力が到着。
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しかし、橋は前日爆破されていて前進できない。
ソンの西に位置するベストの橋も18日になってドイツ軍が爆破しており、もはや仮設橋をかけるしか手段は無くなっていた。
写真はソンの橋が無くなり立ち往生する英陸軍第XXX軍団、ではなく船の通過待ちをしている自転車軍団。
運河と自転車の国、オランダならではの光景だ。
皆さん極めて地味な服を着ているのもオランダらしい。

仮設橋の機材を積んだトラックは後方で渋滞に巻き込まれて中々到着しなかった。
何せマーケットガーデン作戦中、進撃路は基本的に1本しか確保されないのだ。

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夜になって架橋機材を積んだトラックが到着、英軍の工兵に加え、米第101空挺師団やドイツ兵捕虜も動因して、早速仮設橋(ベイリー橋)の組立設置に取り掛かった。
写真はWings of Liberation博物館で野外展示されているベイリー橋。
作業は徹夜となり、2日目、結局ガーデン作戦の英第XXX軍はソンの手前までしか進んでいない。
全工程100kmの内、ジョーの橋からソンの橋があった所までは32km(Googleマップ調べ)しか進んでいない。
間に合うのか?大丈夫か?


【米陸軍第101空挺師団戦区】
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第506パラシュート連隊は爆破されたソンの橋の代わりに仮設で設けたロープと木で出来た橋を渡り、アイントホーフェンの町と街中にかかるドメル川の橋を制覇しに向かった。
途中ドイツ軍の抵抗にあったものの、ドメル川にかかる4箇所の橋を無事に確保した。
51 26 07 N 5 28 60 E (上)
51 26 11 N 5 29 04 E (下)
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結局1100頃に、アイントホーフェン市内で第506パラシュート連隊が無事に英XXX軍団の先遣隊と合流した。
アイントホーフェンの町は開放同日され、記念公園が作られている。
公園の前の道の名前は「空挺通り」。
51 28 34 N 5 29 23 E

第502パラシュート歩兵連隊はH中隊が前日からベストの橋を攻略しよとしていたが第59歩兵師団の残余兵に撃退され、増援を得たものの橋は1100ドイツ軍に爆破されてしまった。
それ以外の第502、501パラシュート歩兵連隊は、前日に既に確保している橋と町を守り、英第XXX軍団の到来を待った。

この日の1300頃、増援として第327グライダー歩兵連隊及び空挺砲兵その他支援部隊がグライダーで着陸した。

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着陸したワコグライダー(のレプリカ)の前でオランダ民間人の歓迎を受ける第101空挺師団の隊員のマネキン。
Wings of Liberation博物館にて。

【米陸軍第82空挺師団戦区】
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グラーヴェの橋は初日の17日の内に確保したものの、近くのグラーヴェの町は未だ開放されていなかった。
グラーヴェの町にはドイツ軍が400名程駐留しており取りあえず17日には町と橋の間に防衛線を張った。
日付が18日になり深夜の0230に第504パラシュート歩兵連隊第2大隊の3個中隊が町に進撃した。
既にドイツ軍は逃げ出しており無血開放となった。
写真は街中の川沿いの門にある、第504パラシュート歩兵連隊の到来を記念したパラシュートを模したオブジェ。
正直、誰かが捨てたゴミ袋にしか見えないのだが...
51 45 38 N 5 44 30 E

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グラーヴェ町の公民館が第504パラシュート歩兵連隊第2大隊の司令部となった。
入口には同大隊の無線コールサイン「サイダーホワイト」が掲げられていた。(尚、第1大隊はレッド、第3大隊はブルー)
町が開放された日、公民館前で民衆がドイツ兵と寝た女性数名を取り囲み、髪を剃り頭にスワチカを描いたという。
51 45 35 N 5 44 25 E

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前日よりドイツ軍はナイメーヘンの町一帯にSS第9及び第10装甲師団による防衛線を素早く張っており、第508パラシュート歩兵連隊のA、B中隊はワール川にかかる道路橋には近づくことさえも出来なかった。
同連隊の残りの部隊はこの日、マースワール運河にかかる橋の内、本命である予定回廊上にかかる道路橋を東から確保すべく進撃した。
一方で同じ橋の西からは第504パラシュート歩兵連隊が攻撃した。
写真は予定回廊がマースワール運河を渡る道路橋と、その隣にかかる鉄道橋。前方が東(がナイメーヘン)方向。
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結局ドイツ軍を撃退し道路橋は確保できたものの、戦闘で損傷しており機甲部隊が通過出来る強度は無くなっていた。
すぐ横に鉄道橋がかかっていたが、これは爆破された。

仕方ない、マースワール運河の渡河にはフーメンの水門橋を確保してあるのでヨシとする。

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この日の朝、ドイツ軍はパラシュート降下場NとTに反撃をしかけ、Tは制圧されてしてしまった。
写真奥方向からドイツ軍は攻めてきた。
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やばい、午後には増援が降りてくる....
第505パラシュート歩兵連隊の全兵力が奪還のため投入された。第508の一部も呼び戻された。
ようやくドイツ軍から降下場を奪い返したのは1400頃だった。
増援部隊が無事に到着し、物資補給も空から行われた。
しかしその代償としてナイメーヘン道路橋への攻撃は後回しにされ、その間ドイツ軍はパンネルデンでライン川を艀で渡り、ナイメーヘン周辺に続々とかき集めの兵力を送り込み守りを固めていった。

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補給物資のパラシュート投下には爆撃機も使われた。
写真はアメリカの航空ショーで撮影した輸送機型のB-24

【英陸軍第1空挺師団戦区】
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この日の朝、ドイツ軍はフォンテッタウ戦闘団が西(写真奥)よりグライダー着陸およびパラシュート降下場Xに奪還攻撃を仕掛けてきた。
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フォンテッタウ戦闘団は1940年のフランス戦でドイツが鹵獲したシャールB1 bis 約160輌 (ドイツ軍はB2と呼んだ)の内、6輌を有していたが、これらは間もなく破壊されてしまった。
写真は電撃戦の最中、B1 bisが活躍したフランスのストンヌ村に置かれているもの。
49 33 02 N 4 55 29 E
B1 bis は本来砲塔に47mm対戦車砲、車体には75mm榴弾砲を装備しているが、マーケットガーデン当時の写真を見る限り75mm砲を火炎放射器に置き換えてフラムパンツァーB2(F)に改造されている。

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前日グライダーで着陸場Sに降りた後、この日の増援空挺降下に備えパラシュート降下場Yを守っていたKOSB(King's Own Scottish Borderers)連隊の第7大隊と、ドイツ軍との間で戦闘になった。、
ドイツ軍側は連合軍の空挺降下が開始されたことを受けてSS第9装甲師団が急遽隷下に組み込んだ、直前まで訓練中のオランダSS義勇連隊ラントシュトルム ネーダータント 第V大隊の約600名による攻撃である。
結局この日の空挺降下は英国本土が霧のため出発が遅れたが、1500に第4パラシュート旅団が戦場の真っ只中に降下し、一気に兵力が増えたイギリス側がドイツ軍を圧倒した。
写真は戦闘と降下のあった降下場Yに建つ空挺降下の記念碑。
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同じくパラシュート降下場Yの様子。石には17-18日の空挺降下と書いてあるが、実際17日にはここには降りていない。
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第1,3パラシュート大隊の主力の進撃は、アーネムの西端でドイツ軍に阻止された。
クラフトの戦闘団は英軍に包囲される恐れから前夜の内に撤退し、シュピンドラー戦闘団と合流していた。
英軍の第1、3パラシュート大隊は、今度は南ルートである進撃路ライオンで前日フロストの隊が達成できた様にアーネムに向かおうとしたが、既にドイツ軍が防衛線を張っており聖エリザベト病院近辺までしか進めなかった。
第1空挺師団長のアーカート少将は、第1パラシュート旅団長ラズベリー准将と共に前夜をオステルーベークのハルテンシュタインホテル西800m近辺で明かしたが、18日の朝0400に出発、ライオン進撃路を通りを経由して聖エリザベト病院の西辺りに来た。
ここでドイツ軍の砲撃を受け近くの家に避難した。
そろそろ、いい加減に師団司令部に戻らなければと思い、周辺にいた第3大隊の兵に煙幕での援護を頼み、少将と准将は現場を去ろうとしたが、ドイツ軍の機銃によりラズベリー准将が重症を負ってしまった。
アレクサンデル通り135番の家(写真の左角の家)に避難し、准将を家の住人の手に委ねた(准将は病院に運ばれ捕虜となったが、後に脱出に成功している)。
51 59 06 N 5 53 04 E
写真奥のレンガ建物は元聖エリザベート病院。
病院の周辺は18〜19日にかけて激戦地になったが倒壊を免れ、その後改築、アパートを経て総合病院施設になった。

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アーカート少将は他の将校2名と共に135番の家を脱出し、ドイツ軍の目を避けながら裏路地を通ってすぐ近くのスワールテ通り14番の家に裏から侵入した。
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家の住人は少将らを屋根裏にかくまった。家の真ん前にドイツ軍の自走砲が居座った為、この日は全く身動きが取れなくなってしまった。

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スワールテ通り14番の壁には「アーカートの家」の表札が。

師団指令不在なので、師団の指揮は第1グライダー旅団長のヒックス准将が取った。
前述の通り18日1500に第4パラシュート旅団が到着すると、この旅団長ハケット准将は自分の旅団の1個大隊を勝手にアーネム橋方向への進撃に充てられたこと、オリジナルの計画通り北と南の2方向からアーネムを攻めない事にエラく不機嫌になったという。



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前日の夕方、アーネムの道路橋を渡りナイメーヘン方向に偵察に向かったSS第9装甲師団のSS第9機甲偵察大隊は、ナイメーヘンの状況を確認し、同大隊が応援する状況ではないと判断し、ナイメーヘンの道路橋とエルストに装甲車両数量を残すと、この日の朝、アーネムに戻ってきた。
偵察大隊の指揮官グレープナー大尉は、橋の北側が英軍に占拠されている事は知っていたが、強行突破可能と思った。
0930に大隊は一気に橋の北、アーネム中心部に向かいダッシュを開始した。
写真は強行突破を試みるドイツ軍側の視点。橋の中央部が盛り上がっており、南側からアプローチする時北側周辺の様子はよく判らない。
橋の右側に英陸軍空挺部隊のエンブレム「ペガサス」が描かれている。
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結局SS第9機甲偵察大隊は先頭の4〜5輌が突破に成功したものの、残り20輌程度はフロスト中佐の空挺部隊が待ち伏せて充分引き付けた後、一斉に放たれた小銃、機関銃、PIAT、迫撃砲、6ポンド対戦車砲、オスターベークからの75mm砲(前夜弾道調整済で無線で砲撃を依頼した)など餌食となり突破に失敗、2時間程の戦闘で指揮官のグレープナー大尉を含むドイツ軍側70名程が戦死した。一方のフロスト隊の損害は軽微だった。英軍の士気は最高潮に達していた。
映画「遠すぎた橋」では、このシーンで怪しい改造車両(まるでマッドマックス2の雰囲気...)が乱舞するが、実際にはプーマ装甲車5輌、ハーフトラックと兵員輸送トラックが含まれていたといい、グレープナー大尉自身はイギリス軍から鹵獲したハンバー装甲車で指揮を執っていたという。
写真はベルギーのバストーニュでパレードに参加するハンバー装甲車。
フェンダーのエンブレムはマーケットガーデンに参加した英陸軍第50(ノーサンブリア)師団のもの。

この日、第2大隊を中心とするフロスト中佐の部隊に増援は到着せず、橋の東側の建物2個は敵に取られたが、ドイツ軍の東からの攻撃を跳ね返してドイツ戦車3輌の損害を与え、橋の北側を守り抜くことが出来た。

作戦3日目(1944年9月19日 火曜日)へ続く



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